マウンテン タイトル マウンテン2

作り手の「手」を追って

interview 03/柴田明美さん(浪江町津島)

かぼちゃ色の記憶を包みこんで。

 1964(昭和39)年、浪江町の津島で生まれた柴田さん。8人きょうだいの家に長女として生まれ、中学まで故郷で過ごした後は、県外の工場に住み込みで働きながら夜間高校で4年間学びました。卒業後は津島に戻り、会社勤めを経て20歳のときに結婚。夫の実家で5人の子育てと畑仕事に謹みつつ、地域の子どもたちにかぼちゃ饅頭の作り方を伝える活動をしてきました。
 震災が起きた2011年以降、柴田さんは津島から約35㎞離れた二本松市に避難し、仮設住宅に住んでいます。現在は、震災と原発事故をきっかけに知り合った県外の方々と交流を深めたり、「浪江町の郷土料理を愛する会」の一員として、学校の授業で浪江町の郷土料理を伝える活動に取り組んでいます。

故郷がの味が結んだ、親子のような間柄。

 「私たちにかぼちゃ饅頭を習ったことがきっかけで、昔ながらのお菓子に興味をもちはじめた男子生徒さんがいて、『福島の和菓子屋さんに職人として就職した』って高校の先生に聞いたときは嬉しかったね。」
柴田さんは、5人の子を持つ母としての顔や農家の顔だけでなく、かぼちゃ饅頭作りの「二代目」という顔も持っています。初代は、結婚を機に川俣町から浪江町に移り住み、建築の仕事と農業を両立させてきた佐藤ノブ子さん(現在86歳)。ノブ子さんがかぼちゃ饅頭を作り始めたのは今から26年前のこと。栃木県の茂木(もてぎ)で野菜を使った饅頭作りを学んだことがきっかけで、浪江町で一番手軽に作れる饅頭としてかぼちゃを選んだそうです。
 それから15年後、地域おこしを目的として町が主催した料理教室の場で、柴田さんはノブ子さんと知り合いました。かぼちゃ饅頭を初めとした郷土料理を教わることで、一世代離れた先生とまるで親子のように活動を共にしていきます。春には山菜を、秋にはきのこを家の裏山に採りに行き、山菜の塩漬けやキャラブキ(フキの幹の佃煮)、あるいは猪鼻(いのはな/キノコの一種)ごはんといった料理を、手取り足取り教わることで自分のレシピにしていきました。
 また、ノブ子さんの家に併設された加工場では、干し柿やかぼちゃ饅頭作りを手伝い、町の金曜市やあおぞら市などで一緒に販売もしていました。柴田さんが子どもを連れてきたときには、ノブ子さんの旦那さんが世話をしてくれたそうです。まるで本当の親子みたいですね。
 少しずつ手に馴染んできた技術と想い。柴田さんはそんな宝物を次世代に伝える活動を少しずつ初めていきました。もちろん、ノブ子さんと2人で「かぼちゃ饅頭」を地元の中学校や高校で教えることも。「浪江町には公立の保育所から高校まであるからほとんどの子のこと知ってるでしょ。こんなに大きくなったんだって、幼い頃から知っている子に教えるのが楽しくて」と、地域のお母さんとしての顔も見せて語ってくれました。

 

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一変した生活、だからこそ継ぐべき味がある。

震災とそれに伴う原発事故によって、故郷は帰還困難区域となりました。震災前は浪江町津島に夫の父母と夫、5人の子どもの9人で1つの家に住んでいましたが、現在は二本松市にある4戸の仮設住宅でバラバラに住んでいる状態です。「震災によって失われたものはたくさんあるが、特に、地元に住めない、畑を作れない、安心して食べられないことの3つが大きい。寂しさというか、心の中から何かがなくなったよう」。
 その一方で、「得たこともあるんだ」と柴田さんは力強く言います。それは、仮設住宅で生活する中で知り合った同世代の仲間との縫い物をする時間や、旦那さんが始めたブログをきっかけに知り合った熊本の方々との交流。震災の翌年春から布や野菜を届けたり熊本に招待するなど、柴田さんたちの縫い物の活動をきっかけに、心の通った支援が毎月交わされてきました。
 これに対して、「『被災者』であったとしてもこの恩を返したい」という思いから、熊本の方々が福島を訪れたときには、焼きおにぎりやワラビの漬物などを食卓に並べて、自分たちが今できる限りのおもてなしをしています。
 「避難を余儀なくされて生まれ育った浪江から離れても、おもてなしの料理を作ったり、『浪江町の郷土料理を愛する会』の活動を通して次世代に伝えていくことを続けていきたいんです」

▶︎柴田明美さんの伝承料理/かぼちゃ饅頭をご紹介

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