マウンテン タイトル マウンテン2

作り手の「手」を追って

interview 04/秋元ヨシ子さん・ソノ子さん(川内村)

福島県双葉郡川内村。この地で15代続く農家が秋元家。

福島県双葉郡川内村。この地で15代続く農家が秋元家です。広大な敷地には樹齢1,200年の杉の木が立ち、他の阿武隈地域の農家と同様に、葉タバコを栽培し蚕を育て現金収入の源としていました。

 

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川内村、70年前の食卓。

 この家の14代目の奥様にあたるのがヨシ子さん。現在は隠居されて本宅の隣のご自宅で趣味の編み物に勤しんでいます。そんなヨシ子さんが食卓を担っていたのは今から約70年ぐらい前のこと。
 当時、主食の米や野菜はもちろん自給自足。肉や魚については「庭で飼っていた鶏が卵を生まなくなったものや、山ウサギと野菜を煮込んだものを食べてました。また、魚は魚屋さんが木箱で持って来た時に、お米と物々交換で手に入れることが多かったです。ただ、絶対量が少なかったので、保存食を仕込むことはありませんでした。」とのこと。また、調味料についても自家製の味噌といったもの以外は、お米と物々交換していたそうです。
 ただし、「戦時中は強権発動として、一定量の米を政府に供出せざるをえませんでした。なので、家に残るお米の量は一日分で二合五勺というわずかなものでした。」
 こうした時代背景の中、この地域でよく作られていたのが「かて飯」。お米に根菜や干した葉などを加えて炊くことで、白米の量を減らしつつお腹を満たす。かて飯は美味しさではなく機能を追求した料理ですが、農作業時に振る舞うお米を確保する必要があった秋元家でも、「いも飯やかぼちゃ飯を半々ぐらい。」の割合で作っていたそうです。

 

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 そんな中で、ごちそうとして作られていたのが猪の鼻(いのはな)ごはん。「ししたけというキノコを裂いて醤油で味付けたものを、ごはんに混ぜて食べていました。」ちなみに、その姿が猪の鼻に似ているから、いのはなと呼ばれています。
 また、お米以外の主食として小麦を作付けして、うどんが作られていました。「特に夏場はじゅうねん(えごま)油と味噌を混ぜて井戸水で伸ばしたタレに、細切りのきゅうりや紫蘇を加えたものを食べていた。」周辺の農家でも同様に、自家消費用の小麦粉が作付けされていたそうです。
 こういった主食と共に食卓に並んでいた副菜としては、身欠きニシンを米の研ぎ汁で柔らかくして、味噌と砂糖で味付けて煮付けた「にしん味噌」や、猪の鼻を天婦羅にしたり、かじめという固い昆布を茹でて味噌漬けにしたもの。そして煮しめやきんぴらごぼうが食卓に欠かせない存在でした。

 

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 同じく食卓に欠かせないお味噌汁について、当時の実について伺うと、野菜物がない冬場には「おからをつとっこ(藁を束ねたもの)に入れて、冬場に外に出して凍みにしたもの」や、「いもがら」(さといもの茎を干した保存食)を用いていたそうです。
 また、全国的に贅沢品だったのがお菓子。秋元家でも「子供達は庭で飼っていた鶏の卵や近くを流れる川で穫ったどじょうを、お小遣いを得るために交換していた」そうですが、当時の子供達が食べていたお菓子は、籾種の残りを大釜で炒り臼で搗いて籾殻を取り除いた「やっこめ」(焼き米)。麦を焦がして挽いた粉に加糖して固めた「麦こうせん」。また「はねことうみぎ」という「トウモロコシの粒を取って浅めの鍋に入れたものを、囲炉裏の火で炒ったポップコーンのようなもの」といったもの。数少ない食材に知恵を施すことで、笑顔は生まれていたのです。

農家として嫁として。

 時は流れ、秋元家の15代目の奥様となったのは、福島県双葉郡大熊町に生まれたソノ子さん。農家の家庭に生まれて、同じ双葉郡の川内村に嫁いだのは昭和41年、22歳の時でした。ご主人の美誉(よしたか)さんと共に、結婚を期に15代目の歴史を継いだのです。
「嫁いで間もない頃は、除草剤というものがなかったので、どの草を抜いていいのか分からず、その度に聞きながら実践していました。また、大熊町の実家は車で40分のところにあったのですが、嫁の立場としてはほとんど帰ることができませんでした。」と、当時を振り返るソノ子さん。
 農家の嫁として嫁いだからには、その仕事はあくまでも農業。料理をするのはヨシ子さんの役割でした。なので秋元家の台所に立つようになったのは先のこと。少しずつ食卓に伝わる料理の作り方を教わったそうですが、「同じ農家でありながら、細かな部分で違いがありました。」と語ります。
 それでも、煮しめやきんぴらごぼうといった日常食や、「大師講団子(たいしこうだんご)」に小豆飯といった、阿武隈の地域で食べ継がれる行事食が、食卓に受け継がれたのです。

米を作り、村の歴史を作る。

 そんな川内村は、平成23年(2011年)3月の東京電力福島第一原発の事故で全村避難を強いられました。秋元家の自宅と田んぼは、原発から20㎞圏外の緊急時避難準備区域(2012年に解除)にあり、その年には国から作付け制限の指示がありました。しかし、村で唯一お米を作ることを決めました。
 「5月の田植えの準備は種もみから何から全部していたので、やってもやらなくても準備したものを投げなければ(捨てなければ)ならない。まずどのぐらいのセシウムがでるのか、知らなければ始まらないのだからやろう。」
 作っても放射性セシウムの値を計るためであって、作ったものを廃棄処分することをわかったうえでの決断でした。また、4月に家畜保健場の方が計った秋元さんの田んぼの放射線量は0.1マイクロシーベルト以下だったことも背中を押しました。
 「起きたことはしょうがない。後ろには戻れないのだから前に進むしかない。昔もいろんなことがあったでしょ。それを乗り越えてきて、あの震災でも1200年根付いた大杉が倒れなかったんだから。ここで倒れるんじゃなくて、頑張って、次の世代に残せることをやっていくんだ。」
 震災の年の収穫米からは放射性物質は検出されませんでした。このように秋元さんが自分の田んぼで実証し記録を残していた甲斐もあり、翌年の平成24年(2012年)では、村は緊急時避難準備区域での作付けについて「除染が遅れている」として自粛を決める一方で、秋元さんたち26戸の農家に試験栽培を依頼しました。結果は、秋元さんの家も含め25戸が「ND(検出せず)」、1戸が安全基準を満たしていました。
 「震災事故以後、場所と人が変わったけど、やっていること・やっていくことはその前から同じ。何にも変わったことも特別なこともやっていません。きれいごとで言っているんじゃなくて、やることをやっているんです。次の子どもたちも大変だと思うけどそれなりに努力していってほしいと思います。」

ノートが紡ぎ、杉の木が見守る家の日々。

ところで、ソノ子さんがヨシ子さんから聞き学んだ家の伝承行事は、「冠婚葬祭」編と「秋元家の1年間の祭暦」編として、2冊のノートに纏められています。お正月から大みそかまでの行事について、温かな字や手描きの図が綴られた文字は、全てが大切なメッセージとなっています。

 

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 「それまでは必要なときにお姑さんに聞いていたが、自分ができても、次の人につながらないと思いました。だから帳面(ノート)に記録として残すことで、次の世代に繋がっていくと思うし、実際に息子夫婦や娘夫婦が、季節や行事ごとに折に触れて『ばあちゃん帳面見して』と確認するようになっています。」
 「土に『種』を蒔いて苗を伸ばし、田んぼを育てていくのと同じで、子どもたちや孫たちに『いままで受け継いできた文化』つまり『生きていく術(すべ)』を教えていくことを、手をかけてやっていかねばならないと思っています。」
 これまでも、ソノ子さんは川内村「食生活改善推進員」として、お母さん方や子どもたちに対する様々な講座を通じて、川内村の食文化伝承に努められていましたが、震災後も子どもたちや孫たちと行う祭事や、村内外から参加者が訪れる田植えや稲刈りのイベントの時には、できるかぎり震災前と同じようにあるものを使って「自給自足」でもてなしています。
 農業を生業とするこの地域では、冠婚葬祭といった人寄せ時には色々な料理が並びます。その際に煮物係や「おぶかし」(おこわ)係といった役割分担をすることで、地域の中で調理法が共有され、食文化は伝承されてきました。

 

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 そして、15代目から16代目へ食卓の伝承が行われ、新たな文字がノートに綴られる。移り行く時代を見つめて来た杉の木も、そんな日が訪れることを待ち望んでいるに違いありません。

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